昭和3年(1928)当時の市長、関一(せき・はじめ)が天守閣復興を提案。議会の賛同を得て推進委員会が設置されると、市民から寄付の申し込みが殺到し、わずか半年で目標額150万円に達した。
 大戦へ向かう重苦しい時代の中で、天守閣復興は大阪市民に熱狂的な賛同で迎えられたのだ。
 
鉄骨組み上げ中の大阪城天守閣
 
 当時、豊臣時代大天守の資料はきわめて乏しく、「大坂夏の陣図屏風」を拠り所に、全国の桃山時代天守の調査によって細部の資料を集めるなど苦労を重ねた。また、復興天守閣を永久的なモニュメントとするため、当時としては最新の建築工法である鉄骨鉄筋コンクリート造りとした。しかもわが国では前例のない地上55mの超高層建築であり、設計には多くの困難があったが工事は順調に進み、昭和6年(1931)11月7日、歴史上3代目の大阪城天守閣が竣工した。
 近代建築による復興天守閣の第1号であると同時に、内部を大阪府下で唯一の郷土歴史資料館として利用するという発想もまったく独創的なものであった。
 
天守閣竣工記念特別観覧券
絵はがき型の特製割引観覧券。大人10銭。
 
 多くの軍事施設をかかえる大阪城は、先の大戦の戦禍を免れえず、特に昭和20年(1945)の空襲では、京橋口多聞 をはじめ、二番・三番・伏見・坤の4櫓などを焼失した。終戦後、3年近く占領していた米軍から大阪城地が返還されて以来、大阪市当局により市民のための大阪城公園整備の努力が続けられた。破損した石垣や、戦災に加えて昭和25年(1950)ジェーン台風で甚大な被害を受けた城内の古建造物の修復など、戦後の復興には募金活動を含め官民挙げての取り組みが行われた。その後も今日までたび重なる修復・再建工事が続けられ、都心の真ん中の広大な史跡公園として整備されている。  
空襲の被害を受けた一番櫓
 
 昭和34年(1959)の「大坂城総合学術調査」による地下7mの“謎の石垣”発見とその後の研究・調査によって、現在の本丸の地下深くに豊臣時代の石垣が埋もれていることがわかった。今でも多くの人が現存の見事な石垣を太閤秀吉の築造と誤解しているが、石垣も堀も、地上に残る大阪城遺構のすべてが徳川再築以降のものである。  
本丸地下に眠る豊臣時代大坂城の石垣の一部
野面積みという古い手法を使った石垣で、その表面には火災の痕跡が認められる。