徳川時代大坂城の城主は歴代の徳川将軍であるが、3代将軍家光が訪れた後、幕末動乱のさなかに14代家茂が入城するまで230年もの間、大坂城を訪れた将軍はいなかった。泰平の世に大坂城を守っていたのは、幕府から任命された城代をはじめとする大名や旗本たちの武士であった。
錦絵菱垣新綿番船川口
出帆の図
綿問屋が軒を並べ、出舟 入舟で賑わう商都大坂。
 
錦絵
滑稽浪花名所道頓堀
 
   
錦絵 心斎橋通初売の景   大阪市街図屏風
 
 万治3年(1660)城内青屋口の火薬庫に落雷して大爆発が起き、後に幕府は現存する石造りの火薬庫(焔硝石蔵)を建造した。次いで寛文5年(1665)には天守北側の鯱に落雷、大天守は竣工後わずか39年目で焼失し、以後昭和の復興まで266年間、大坂城は天守を欠いた城となった。さらに天明3年(1783)には城の玄関である大手多聞櫓をやはり落雷で焼失し、大坂城の威厳は甚だ損なわれることとなってしまった。  
金城聞見録(模)
天守焼失後の大坂城天守台のようす。
 
 天保14年(1843)幕府は大坂・兵庫・西宮・堺の町人らから155万両を超す御用金を集め、これを資金に大手多聞櫓の再建をはじめ天守を除く城内すべての建物の大修復工事に着手した。
大坂城本丸東側諸櫓
(幕末の湿板写真)
 
同位置の現景
  大塩平八郎画像
 天保8年(1837)元・与力の大塩平八郎らが町奉行らの暴政を倒さんがため天満に決起した。この鎮圧にあたって城兵が出陣し、大坂城は初めて軍事的な機能を果たした。
 
 14代将軍家茂が征長戦争の最中に大坂城中で病没、後を継いだ徳川慶喜は15代将軍として幕府崩壊までの1年余り大坂城と二条城を舞台に、諸外国の代表との会見などに活躍した。しかし、慶応4年(=明治元年1868年)幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れると、慶喜は大坂城を脱出、江戸へ逃げ戻った。その混乱の中で本丸台所付近などから出火し、近世城郭建築の精華であった城内の建造物はほとんど焼失してしまった。こうして、再築以来約250年を経て、大坂城は再び落城の憂き目を見ることとなったのである。
  錦絵 慶応四辰年春諸御役大名方警衛之略図
炎上する大坂城と攻めよせる討幕軍。
 
 明治以降、大阪城跡は陸軍の軍用地として整備され、維新の大火で焼け残った櫓や城門・焔硝蔵・金蔵などもすべて実用に供された。本丸内にも軍用建物が建て込み、市民や観光客の城内への出入りは禁止されていた。  
明治時代の京橋口筋金門
「大阪砲兵工廠・砲兵第二方面本署」の
表札が掲げられている。