大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、家康の孫である松平忠明に与えられた。忠明は、大坂の町の復興に努めたが、この間、大坂城の本格的な再建はなかったと考えられる。
 元和5年(1619)大坂は幕府直轄領となり、翌6年(1620)2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。.
 
 秀忠は普請総奉行に選ばれた藤堂高虎に、「石垣を旧城の2倍に、堀の深さも2倍に」と強調したという。
 築城工事のうち、堀の掘削や石垣の構築は西国と北陸の諸大名64家が幕府の命を受けて担当し、建物の建設は幕府の直営で行われた。元和6年から始まる第1期工事では、東・北・西の外堀の構築と西の丸などの建物、寛永元年から始まる第2期工事では内堀の構築と本丸御殿など、さらに寛永5年から始まる第3期工事では南外堀の構築と二の丸南部の建物の建設が行われた。
 天守の建設は第2期に行われ、その石垣は熊本城主の加藤忠広が築いた。天守建物は寛永3年の竣工で、外観5層・内部6階、高さ58、5mに達する巨大な建造物であった。
 
大坂城本丸推定断面図
 
 築城工事への参加を命ぜられた大名は、石高に応じて分担する石垣の長さを割り当てられた。各大名は組分けされて連帯責任と個別責任を負い、決められた工事担当区域「丁場」ごとにできばえを競い合わざるを得なかった。大坂城の石垣には、大名が自分の担当丁場を誇示するかのように家紋などの刻印が丁寧に彫り込まれている例が多く見られる。  
大坂城普請丁場割之図(模)・部分
諸大名の分担工区が明示されている。
 
 大坂城は、石垣の規模が格段に大きいだけでなく、堅くて良質の花崗岩からなり、しかも要所には、比類のない巨石が多く使われている城として全国の城郭のなかでも抜きんでた存在である。各大名の競争心に加え、築城技術の完成期に再築されたため、大坂城の石垣には高度に洗練された技術が見られる。
 大坂城の石は、廃城となった伏見城をはじめ、加茂(京都府)や六甲(兵庫県)からも運ばれたが、特に瀬戸内海の島々は良質の花崗岩の産地として、多くの石が切りだされ、海路、大坂まで運ばれた。これらの島にはせっかく切り出されたものの大坂まで運ばれずに残された石(「残念石」と呼ぶことがある)が見られるところもある。 これらの巨石は、陸上では「修羅」と呼ばれた運搬具によって運ばれたと考えられる。
算木積みの石垣に刻まれた刻印
(東外堀)
 
昭和56年小豆島青年会議所による
「修羅引き」実験(大阪城本丸)
 
小豆島小海海岸にある大坂築城残石