天文5年(1536年) 0歳
尾張愛知郡中村に生まれる。
天文12年(1543年) 7歳
実父の弥衛門が没し、実母のなかは竹阿弥と再婚する。
天文20年(1551年) 15歳
養父竹阿弥と不仲となり中村を出る。武家奉公に憧れて「街道一の弓取り」といわれた今川義元へ
の仕官を目指し、義元配下の武将松下加兵衛之綱に草履取りとして仕える。
天文23年(1554) 18歳
尾張清洲城主織田信長に雑用に従事する小物として仕える。
永禄4年(1561) 25歳
信長配下の足軽頭浅野又右衛門長勝の養女おね(14歳)と結婚する。媒酌人は前田犬千代がつとめる。
永禄8年(1565) 29歳
信長の一奉行としての地位を築き、木下藤吉郎秀吉と名乗る。
永禄10年(1567) 31歳
墨俣の一夜城 で有名な美濃攻略に従軍する。
永禄11年(1568) 32歳
美濃を攻略した織田信長は約6万の大軍を率いて岐阜城を発し、足利義昭を奉じて上洛する。のち、秀吉は信長の京都奉行の一員として京都及びその周辺の政治に関与する。
永禄12年(1569) 33歳
将軍義昭の警護の他、伊勢北畠攻めの信長軍に従軍し、大河内城の包囲攻撃に加わる。このころ、秀吉は対織田家中の有力な家臣の一人として織田家宿老並の地位にいた。
元亀元年(1570) 34歳
毛利の外交的な役目を命じられる。信長は越前朝倉義景討伐のため京を発するが、浅井長政の裏切り により京都に退却する。退却の際秀吉は殿をつとめる(金ヶ崎の退き口)。6月28日織田・徳川連合軍は姉川の戦い に勝利し、秀吉は浅井氏の居城小谷城の押さえとして横山城に入る。
元亀2年(1571) 35歳
信長の比叡山焼き討ち に従軍する。
元亀3年(1572) 36歳
信長包囲網 が形成され、織田政権がもっとも苦境に立たされた時期、浅井氏小谷城の押さえとして新たに虎御前山に砦を築き、そこに秀吉をおいた。
天正元年(1573) 37歳
信長、将軍義昭を追放処分として秀吉に命じ河内の若さに護送させる。(室町幕府滅亡)9月1日秀吉によりついに小谷城落城 、浅井氏の旧領江北北三郡(12万石)を与えられ一国一城の大名になり、姓を木下から羽柴に改姓する。
天正2年(1574) 38歳
小谷城から今浜に移転しその地を長浜と改め、筑前守を称し羽柴筑前守秀吉となる。
天正3年(1575) 39歳
石山本願寺攻めに従軍した後、織田・徳川連合軍による武田勝頼との一戦「長篠の戦い」 に参陣する。
天正4年(1576) 40歳
信長近江安土に築城。
天正5年(1577) 41歳
紀伊の雑賀・根来討伐に参陣。8月8日柴田勝家を総大将とする上杉謙信進入の備えに派遣されるが、勝家との作戦上での意見の食い違いで信長の許可なくして戦線離脱、長浜に帰国 して信長の逆鱗に触れる。
その時松永久秀の謀反 が起こり、秀吉出陣。その後中国方面の最高指揮官を信長から命じられ、播磨に出陣。
天正6年(1578) 42歳
三木城主別所長治が反旗を翻したため、上月城の尼子氏救援 を断念し、三木城攻略に全力を注ぐ。
天正7年(1579) 43歳
三木城を兵糧攻めにする。(三木の干殺し)秀吉の参謀、 竹中半兵衛重治 が陣中で没する。
天正8年(1580) 44歳
別所長治自刃、三木城落城。信長から播磨の支配権を与えられる。舎弟羽柴秀長 が但馬を平定。
天正9年(1581) 45歳
姫路城築城。因幡進行のため鳥取城を包囲 し吉川経家自刃落城させる。11月8日姫路に凱旋と同時に淡路島に上陸、平定する。
天正10年(1582) 46歳
高松城主清水宗治攻略 のため、高松城を包囲し足守川を堰き止めて水攻めをする。6月2日明智光秀が信長を急襲、本能寺の変起こる。その事実を知り、清水宗治切腹で毛利と和議を結び、姫路へ帰郷した。(中国大がえし)
6月13日明智光秀を山崎にて撃破 し、信長の敵を討つ。6月27日清洲会議 が開かれ織田家の後継者に信忠の遺児三法師が決まる。大々的に信長の葬儀を大徳寺で行い天下に宣伝する。
天正11年(1583) 47歳
4月21日織田家の反秀吉勢力の中心である柴田勝家の武将佐久間盛政を賤ヶ岳で撃破 し、23日北の庄城に勝家を包囲し破る。その後加賀を平定する。
朝廷より勅使を長浜城に迎え信長に変わる実力者として期待される。大阪に築城を開始する。
天正12年(1584) 48歳
4月9日徳川家康・織田信雄連合軍と小牧・長久手の戦い が始まる。この戦いで池田恒興・森長可が戦死する。11月15日信雄と和睦を結ぶ。
天正13年(1585) 49歳
3月10日、正二位・内大臣に叙任する。紀伊 ・四国 を次々に平定し7月11日、従一位・関白に叙任する。秀吉はここに人臣の最高位にたった。秀吉の関白就任には強い抵抗があったが、摂関家を懐柔し「藤原秀吉」として関白宣下をうけた。
佐々成政討伐後、借り物である藤原姓では説得力がないため、自ら新姓を創出して朝廷から豊臣姓を授かった。ここに豊臣秀吉が誕生する。
天正14年(1586) 50歳
九州遠征に先立ち、東の押さえとして徳川家康を豊臣政権への臣下させるべく、妹の旭姫を嫁がせさらに大政所を人質に送り、その結果家康は10月27日大坂城にて秀吉に謁見し、臣従を誓った。
12月19日太政大臣に任官する。
天正15年(1587) 51歳
3月1日九州遠征のため約8万の軍勢を率いて大坂城を発つ。5月8日島津義久は秀吉に無条件降伏 して臣従を誓う。ここに九州平定が成る。
天正16年(1588) 52歳
御陽成天皇を聚楽第に招く。7月8日刀狩令を発布する(兵農分離)
天正17年(1589) 53歳
5月27日秀吉の愛妾茶々が淀城で男子を出産。9月1日1万石以上の大名の妻子を在京させる。
天正18年(1590) 54歳
3月1日北条氏討伐 のため12万の軍勢が京を発つ。小田原城は完全に包囲され7月5日北条氏直は籠城兵の助命を条件に開城、秀吉の軍門に降り、約100年の間典型的な領国支配を続けてきた名門小田原北条氏は滅亡 した。
戦後処理として徳川家康を北条氏旧領へ移封を命ずる。その後奥州に向かい 小田原に参陣しなかった大名の所領を没収して、豊臣秀吉の手によって日本全国が統一された。
天正19年(1591) 55歳
豊臣政権の樹立や天下平定の功労者の豊臣秀長 が1月22日大和郡山城で死去する。2月28日千利休 に切腹を命ずる。この秀長・利休の2人の死は豊臣家にとって暗い影を暗示していた。8月5日秀吉愛児鶴松が3歳で没する。秀吉朝鮮出兵の準備を進める。
12月28日豊臣秀次 、関白に補任され、これ以後秀吉は太閤を称する。
文禄元年(1592) 56歳
秀吉は日本の統治を関白秀次に任せ、朝鮮出兵に専念すべく、3月26日京都を出陣肥前名護屋に向かう。7月22日大政所死去。
文禄2年(1593) 57歳
朝鮮出兵。8月3日淀殿が大阪城二の丸にて男子を出産。肥前名護屋より大阪に帰城する。秀頼 の誕生は甥の秀次の立場を微妙なものにしていった。
文禄4年(1595) 59歳
秀吉の信頼する蒲生氏郷 が京都で死去、また秀次の弟大和郡山城主羽柴秀保も横死を遂げる。7月3日秀吉に対する謀反の疑いで秀次は詰問を承け、8日に関白・左大臣の官位を剥奪、15日高野山にて切腹して果てる。
20日秀吉は諸大名から秀頼に対する忠誠と秀吉の法度の遵守を誓うための血判起請文を提出させる。
慶長元年(1596) 60歳
秀吉病に伏せるようになる。7月13日畿内に大地震がおそい、伏見城が倒壊する。
明使の持参した国書に激怒した秀吉は再度、朝鮮へ出兵する。
慶長2年(1597) 61歳
伏見城天守が竣工し、秀吉・秀頼大坂より正式に移る。
慶長3年(1598) 62歳
醍醐寺三宝院で最後の花見を行う。
8月5日家康利家ら五大老に直筆の遺言状を与え秀頼の将来を託し、翌日にも五大老を枕元に呼びつけ秀頼の将来を託す。
8月18日一代で百姓の身分から天下人になった戦国の英雄「豊臣秀吉」伏見城中にて没する。